今回の街歩きは
前回の街歩きでは、
隅田川テラスより、
数か所の橋を紹介しました
(勝鬨橋中央部 都電はバスに姿を変えた)
この街歩きで、
橋を見ている時に、
多く目にするものがありました
それが「渡し舟跡」です
橋ができる前に、
その土地の往来を支えた痕跡を、
今回は手繰っていきたいとおもいます
石碑が示す渡しの伝え
現代で渡し舟は、
ごくわずかとなりましたが、
過去の東京で川を越えるには、
渡し舟が支えていました
しかし、交通容量等から、
渡船は橋に取って代わり、
姿を消していきました
その中から、
見つけた跡を3つほど
紹介いたします
1:かちときの渡し
(かちときのわたし碑)
勝鬨橋の由来になった、
渡し舟の跡です
(石碑横には案内がある)
名前の由来は、
この様な交通施設には珍しく、
地名からではなく、
日露戦争での要塞陥落が、
由来となっています
今の勝どきという地名は、
後から付けられた地名なのです
現在では、
勝鬨橋に交通の機能は、
移行しましたが、
ひとつの船が、
街の地名を生み出した
重要な石碑です
2:佃の渡し
(佃島渡船跡)
佃の渡しは、
佃大橋が開通するまでの320年間、
この土地の交通を支えましたが、
オリンピック関連工事により、
佃大橋が開通すると、
渡船の役目は終えました
(当時の船着場は広場に変わる)
(大幅員の道路が、かつての渡しを支える)
そんな佃大橋の、
「佃」という地名ですが、
佃煮の語源の地なのです
(佃大橋より佃を望む)
青い看板の店をはじめ、
今でも数件佃煮屋として、
営業を続けています
そんな佃大橋の足元の、
堤防にはこのような、
埋め込みがありました
(埋設物盤:この下には有楽町線が通る)
(背部の幅広道路はここで突然切れる)
この橋の地下には、
東京メトロ有楽町線(8号線)が、
敷設されいています
埋め込みには、
「帝都高速度交通営団」とあり、
営団地下鉄であったことを残す、
痕跡となっています
ちなみに、
有楽町線のこの区間は
昭和63年に開通
埋め込みより2年の歳月を経て
開通しています
かつては、
渡し舟が支えたこの道は、
橋と地下鉄が今では支えています
(渡し船の参照) 隅田川の渡し - Wikipedia
街のアップグレードはおもしろい
(「水上」から「橋・地下」へ)
いかがでしたでしょうか
今回は、渡し舟をピックアップしました
川を渡るために、
都市が代謝し、
新たな形が生まれる
面白さがあったのでは
ないのでしょうか
次回は隅田川に刺さる謎のオブジェに迫ります
(なにこれ)
よろしくおねがいします
お面パンダ
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